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第十二話 和の音 - blog essay - 天と地に合氣する 暮らし編

更新日:2020年5月6日

5月の上旬だというのに各地で夏の様な暑さが続いた。 周りの山桜の開花は例年より早く、二ホンミツバチも分蜂しているらしい。 気が付いてみるとヤマブキは黄色く彩られ、 友人から頂いたジューンべリーの苗木は10年経った今、 すっかり大きくて淡い花を咲かせていた。 動植物が活発になるということは、人も活発になっているというのは自然の摂理。 特に春から初夏に向けて皆ワクワクして自然を求めたくなる。山菜採り、草花の鑑賞、

山登り、キャンプ、BBQ,海、川、fishing等々。 しかし今年のGWはいつもより静かなようだ。 - 合氣の稽古 -


合氣道開祖植芝盛平翁は天地自然と一体となる、宇宙の秩序を「合氣道」を切り口にお弟子さんと共に世界に広められた。

私も以前から関心があり稽古に通っているがこの通り、直接肌と肌で触れ合う、相手と直接触れるいつもの稽古は今はない(私が通う道場では)。

子供たちも通っていたので、畳の部屋がある我が家で稽古を自分たちで何回か再開してみた。 準備運動、後方受身、前方受身、体操、膝行、今回の技は胸突き小手おろしと短刀持ちでの胸突き。思ってた以上に充実した。「本氣」で相手と向き合う、触れ合うという一体感は生身で実践して身に付くものなのだな、とつくずく実感させられる。


元々万物は「氣」というものから生まれ「氣」に還っていくと云う。ある人はそれを宇宙生命、空、 神と云う。元々人も動植物も繋がっており、敵も味方もなく歓喜も恐れも怯えもない。合氣の稽古は心を手放し、「氣」に還る稽古。

この間まで学校保育園を含め、クラブチームの活動や、芸事習い事、育児教育を他人に任せ過ぎていた、依存していた面もあったな、と感じている。親の背中を見せる訳ではないが、親が率先してやると子供も真似する。親が、大人が勝手に出来ない、出来ない子はダメだと潜在意識にあり、それらが伝わっていた。子供たちは自身で身の丈に合ったものを選び愉しんでいる。それをああだこうだいうのが大人の心だろう。

因みに私のだらしなく見せたくないところまで真似されるのには悩ましい・・・。



-自然の中に身を置く-


住んでからまだ探索していなっかった裏山に登り、新芽が出てきた木々を望む。ふかふかの落ち葉の感触もどこか懐かしい。暑いから川の水で涼むところ、先にカモシカがおもむろに佇んでいて、ジッとこちらを見ている。「どうもどうもカモシカさん!遊びましょ!」見えてなかった近くの足元を改めて触れると発見があり愉しい。

雪でも降ってきたのかと皆で騒ぐほどの山桜の花は散り降り、まだ再生したばかりの薄緑の新芽は小さすぎて、季節外れの強い日差しを遮ってはくれない。そんな中、2キロ先の珈琲店まで鳴き始めたばかりのかじか蛙を耳にして、自転車を一往復するのが定番コースだ。

「the sence of wonder」レイチェル・カーソン氏は子供たちへ、自然を探索して感性を育ませることを説いている。確かに同感できるから私もここで暮らしている。

が、しかしと思う。どこに住もうと子供たちが集まるエネルギーは凄まじいもの、子供たち同士で育むものは深い。肌と肌で触れ合う、喜怒哀楽が生身で交差する必要のある幼児期は(幼児期後期9才まで)、直接対面して生活を全うしたい。この子供たちの社会の上で、自然な環境を選択したい。


自粛に心を執着していると委縮してしまい、なかなかマイナスな心を手放せない。

本氣で人と触れ合うこと、本氣で厳しい自然に触れることは、

起こりうるあらゆる事象を受け入れる-覚悟-が必要だろう。


覚悟を持って合氣しあい、泣いて笑って愉しんでいきたい。



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